数学について、いろいろな人と語り合う機会がある。もちろん数学が好きな人もいれば苦手な人もいる。数学の魅力について目を輝かせて語ってくれる人もいれば、それと同じくらいエネルギッシュに「なぜ自分は数学が苦手か」を熱弁してくる人もいる。
たとえば、「分数の割り算から意味がわからなくなった」「−1×−1=1の意味がわからなくてついていけなくなった」等々、「あるところまでは楽しかったのに、あるときからわからなくなった」と、数学の(苦い)思い出を語ってくれる人もいる。そういう人たちはなぜか、「意味がわからなくなった」ことを以て「挫折」と決めつけてしまっているようである。
だが、分数に割り算を導入したり、−1×−1=1と定めたりする瞬間に「意味がわからなくなる」のは、少しも恥ずべきことではない。誤解を恐れずに言えば、そこには端から「意味」などないからである。
分数の割り算や、負の数によるかけ算は、何か既知の「意味」を表現するために導入されるのではない。「2/3を3/4で割る」とはどういう意味か、「-1に-1をかける」とはどういう意味か、無理に説明しようとすればできないことはないが、意味のことなど少しも考えなくても、2/3を3/4で割ることはできるし、-1に-1をかけることはできる。ひとたび記号運用の規則を身につけたなら、意味がわからなくても行為(計算)できる。意味は、むしろ行為のあとについてくる。
分数の割り算をどのように定義すべきかや、負の数によるかけ算をどのように定めるべきかは、semanticalな(≒意味の側からの)要求によってよりも、syntacticalな(≒記号が従うべきルールついての)要請によって決まる。
たとえば、なぜ「(-1)×(-1)=1」でなければならないか。これは自然数のかけ算がみたす「分配則」を保存したまま、負の数の間にもかけ算を延長しようとした場合に、必然的に導かれる帰結だ。
一般に、自然数のたし算とかけ算に関しては、
a × (b + c) = a×b + a×c
という「法則」が成り立ち、これを「分配則」と呼ぶ。この法則を負の数まで延長しようとすると、自然に(-1)×(-1)の取るべき値も定まるのである。
実際、負の数を含む計算に分配則を課すならば、
(-1) × { 1 + (-1) } = (-1)×1 + (-1)×(-1)
が成り立つはずで、このとき左辺は (-1)×0=0、右辺の(-1)×1の部分は(-1)となるゆえ、
0 = -1 + (-1)×(-1)
となり、 (-1)×(-1)=1が導かれる。(*1)
数は、当初は日常の中の「意味」を表現するために導入された道具だったろうが、ひとたび記号として自立してしまえば、今度は記号世界の秩序にしたがって、自律的に展開していく。負の数の間の演算は、日常の意味を記述するために定義されるのではなくて、守られるべき記号操作のルール(この場合は分配則)にしたがい、自然に定まってしまうのである。
要するに、 (-1)×(-1)=1でなければならないというのは記号の側からの要求であって、そこにあらかじめ予定された「意味」などないのである。別の言い方をすれば、記号が、意味の先まで人を導くのである。それで、最後まで「意味不明」のままであれば数学も面白くないが、実際には記号が要求する行為(計算)の反復によって、次第に意味がつくりだされていくから面白い。
a × (-1) = -a
という演算規則にしたがって数を運用するとき、脳内に「数直線」のイメージがあれば、(-1)をかけるたびに、かけられる数が原点の反対側に飛ばされていくような感覚を生じるだろう。4を-4に、19を-19に、あらゆる数を数直線の原点に関して対称な場所に飛ばす「行為(action)」として、「×(-1)」という演算が次第に「意味」を帯びてくるだろう。そうすれば、 (-1)×(-1)=1というsyntacticalな(≒記号運用上の)ルールもsemanticalに(≒意味として)自然に見えてくる。一度原点に関して反対側に飛ばした数を、再び反対方向に飛ばせば元に戻る。これが空間的に解釈された「 (-1)×(-1)=1」という計算の「意味」である 。(*2)
いずれにせよ、行為に先立って意味があるわけではない。記号運用のルールにしたがった計算の反復の果てに、意味はあとからついてくるのだ。
だから本当は「意味がわからなく」なってからが数学は面白い。意味不明でも辛抱強く計算していると、まるではじめはサラサラだった葛湯が次第に固まってくるように、少しずつ意味の手応えを感じるようになるだろう。
数学を勉強していて意味がわからなくなった瞬間、自分が数学に「ついていけなくなった」と落ち込む必要はないのである。本当は、自分が数学についていけなくなったのではなくて、意味が数学についていけなくなっただけかもしれないのだ。自分が数学に「置いて行かれた」のではなく、自分が数学とともに意味を後ろに置いて行ってしまっただけかもしれないのである。
”- みんなのミシマガジン (via odakin)