日曜日

copipe

awarenessxx:

“なぜ僕ら大人が真正の愛ではなく、観念もしくは自我拡張欲の偽装でしかない「愛もどき」しかもてなくなっているかと言えば、社会に、自分の頭の中に「虐待装置」を作り上げ、自然な感情を抑圧するのが第二の天性になってしまっているからです。”

感情の聴(き)き方

《コスモスライブラリー》より。

2004年10月延岡市 青年大学講座資料

http://www.kosmos-lby.com/column01/e20.html

《省略》

もう一つだけ、例を挙げるなら、古来どの宗教・道徳でも説かれてきた「愛の教説」というものがあります。

「愛なき者は人ではない、心に愛をもて」というものですが、こういうものですら人を虐待する装置と化しているのです。単純な人はそれを見ない。

そのメカニズムはこうです。

見てきたように、僕らの社会は正直な感情を抑圧、否定する各種の「虐待装置」をもっています。

その中で育ち、他から虐待され、自ら自分を非難虐待するということを繰り返している人間に愛など持てよう道理がありません。先程の犬の例と同じで、虐待された者のつねとして、僕らの中には隠れた怒りや憎しみがあるのです。

ところが愛の教説からすればそれは「あってはならない」ものなのです。

そこで今度はまた、「愛がもてない」自分を非難するという羽目に陥るのです。愛の教えが逆に、苦しみ憎しみ偽善を生み出す装置になるのです。このプロセスをよく注意して見て下さい。

愛は、本来人間の心の中に豊かにあるものです。それは幼児を見ただけでもわかる。

もしもこの世界から小さな子供がいなくなってしまったら、この人間世界はすぐに自滅してしまうでしょう。「愛の発電機」である彼らがいてくれているおかげで、それに助けられて愛なき大人も破滅を免れているのです(増加する一方の児童虐待はこの点、シンボリックです)。

すでに申し上げたいことはおわかりかと思いますが、なぜ僕ら大人が真正の愛ではなく、観念もしくは自我拡張欲の偽装でしかない「愛もどき」しかもてなくなっているかと言えば、社会に、自分の頭の中に「虐待装置」を作り上げ、自然な感情を抑圧するのが第二の天性になってしまっているからです。

生きた本物の感情ではなく、「知識の声」の方に自己同一化し、前者を無視したり虐待したりし続けているからです。

その結果、感情は変質し、欲望は歪みます。愛は失われる。だからその放出はしばしば危険なものとなるのですが、その原因の方は見ず、結果だけを見て感情や欲望は悪で危険だと決めつけ、さらに法律・規則の類を増やし、管理統制を強化する方向に向かうのです・・・結果、虐待はさらに強化される。

それで事態が改善されるわけはないので、やることがまるで逆なのです。

ミゲルという人は、だから、「リアルな感情」の方に耳を傾けよ、それをじかに感じ取ることを学べ、と教えるのですが、これが実は容易なことではありません。

少なくとも大人には困難なことなので、僕らは何かを感じるとすぐにそれを頭の中の「知識の声」に適合するよう解釈を加え、合理化しようとするからです。そうしてまたもや、感情が教えようとする真実から遠ざかってしまう。

「知識の声」との無意識の自己同一化が破れないかぎり、そうならざるを得ないのです。そのために彼は何冊もの本を書いてきたと言えるので、それをここでかんたんに要約することはできません。

ですから直接彼の著書に当っていただきたいのですが、以上のことを知的に理解されるだけでもいくらかはちがうだろうと思います。

《省略》

(via awarenessxx)