月曜日

copipe

edieelee:

“魔法使いサリーもそうだけれど、この頃の魔女っ子はどこかしら暗いイメージがある。もともと当時の少女マンガの流行がセンチメンタルな話だったからかもしれない。不幸に負けず堪え忍んで最後に幸せになる…そんなストーリーが少女マンガの主流だった時代だ。   *   *   *魔法使いサリーにしてもひみつのアッコちゃんにしても貧しい家庭の友人が少なくない。ガキ大将はたいてい八百屋などの自営業をしている。その家庭は肝っ玉母さんに支えられて賑やかではあるが決して裕福とはいえない。一家総出で店を支えているから弟の面倒は兄が見ているとか、「俺んちは貧乏だから○○が買えない」というエピソードが繰り返し出てくる。サリーちゃんのよしこちゃんの家も父親がタクシー運転手でかろうじて家計を支えている。母親は既になくなっているのでよしこちゃんは学校が終わると三つ子の弟たちの面倒を見なければならない。その一方でそれと対比するように裕福な家庭も描かれている。サリーちゃんなら医者をしているすみれちゃんの家はかなり裕福だし、アッコちゃんの場合はアッコちゃんの家庭が裕福だ。木造の長屋のような家や借家で暮らす子供と二階建てのモルタルで庭でゴルフの練習が出来るような家の子供。   *   *   *それらが学校で一つのクラスで席を並べている。学級会でも裕福な家の子供は悪気はないのだろうけれど平気でハイソ(これも死語かw)な発言をし、貧しい子はそれを「お嬢様はこれだから困る」と鼻で笑う。裕福な子供は「放課後みんなでボランティアをやろう」という。貧乏な子供は「家業の手伝いや弟たちの面倒をみなきゃならないからそんな暇はない」という。まさに「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」状態(笑)。現在のアニメよりも当時のアニメの方がこういう「格差」を素直に描いていたと思う。そしてそれゆえ「意見の違いがなぜ生じるのか?」も分かりやすかった。まあ国民の大半が「貧乏」の部類に属していたから、描く事に抵抗がなかったのだろう。大半が中流になってしまうと、貧乏を描くことが後ろめたくなるものだ。この時代のアニメのセリフが少なからず放送コードに抵触しカットされていることからもそれが分かる。当時の人々は大人も子供も「恵まれない不幸な人々」を好むと好まざると日常的にきちんと受け入れていた。浮浪児やみなしご、捨て子、孤児院、混血児などなど。それが何時の頃からかタブーになり、「存在していないもの」として扱うようになった。   *   *   *魔法使いサリーの底辺に流れるのは「魔法では何も解決しない」という考えだと思う。確かに主人公は魔法使いで作中でいろいろな魔法を使う。魔法使いだからこそ出来る事がある。しかしよく見てみると魔法はストーリーの大きな流れには影響を与えていないことが多い。魔法で空を飛ぶのは飛行機かヘリコプターを使うのと対して変わらない。サリーの魔法は、魔法でなくてもできることしかできないのだ。あるエピソードでは工作の宿題の「馬」の人形を忘れてきた少年がいた。その子は次の日もその次の日も忘れてくる。実は長い間病気で寝たきりの少女が彼の作品を気に入ったのでその子に渡してしまっていたのだ。それを知ったサリーは魔法で少女にその馬と遊ぶ夢を見させる。ベッドから出て馬に乗って星空を駆け巡っていく夢…翌日「今日もまた持ってきてないのか」と少年が糾弾される場に、少女の母親が彼の宿題の馬を届けに学校にやってくる。少女は亡くなった。幸せな笑顔を残して。サリーの魔法で死にかけてる少女の命は救えない。せいぜい最後に幸せな夢を見せる事しかできない。そもそもその夢はサリーの魔法だったのだろうか?とも思う。連日先生から叱られつつも工作の宿題を少女に預けた少年の気持ちが少女に最後に見させた夢だったのではないだろうか。   *   *   *サリーのクラスにインドからの転校生の少女がやってくる。一生懸命クラスにとけ込もうとするも、日本人とは異質の風貌(ガンダムのララアみたいだったような)はクラス全員から拒絶される。自分とクラスの皆との心の架け橋になればと彼女は花壇を作り始める。しかしその花壇もクラスの悪ガキ達によって荒らされてしまった。そんななか彼女が倒れ入院する。彼女の心臓には欠陥がありその治療のために日本に来ていたのだ。緊急の手術が行われるが手術は難航し彼女は死線をさまよう。おりしも嵐がやってきていて彼女が植えた花の種は雨に流されつつあった。サリーは彼女の作った花壇を守る事が彼女の命を救う事だと考え、流されずに芽を出している花の種を必至に探し出そうとする。サリーがやっと花の芽を見つけた時、手術も成功し彼女は回復に向かう。彼女が退院して再び学校に来た時、クラス全員によってきちんと手入れされ沢山の花が咲いている花壇があった。少々ロマンチシズム過ぎる気もするが、彼女の命を救ったのは、サリーの「魔法」ではなく、彼女が手術室の中で生死をさまよう中、雨の中を泥まみれになって花の芽を探して彼女の花壇を守ったサリーの「祈り」だった。   *   *   *新幹線で「天国行き」の切符を買おうとする少年がいた。サリー達が理由を尋ねると、友達からマンガを借りていたのだけれどその友達が交通事故で死んでしまい、天国までマンガを返しに行こうということだった。少年は同時に友達の命を奪ったトラックを憎んでおり、サリー達は乱暴な運転をするトラックの運転手たちに抗議に行くが取り合ってもらえない。怒ったサリーは魔法でトラックがスピードを出せなくしてしまう。これを続けていけば日本から交通事故がなくなる、と。しかしサリーのパパが現われサリーの魔法を取り上げてしまう。自分は正しい事をしてるんだとパパに抗議するサリー。パパはトラックの運転手たちの家族の様子をサリーに見せる。トラックが正常に運転できないため仕事が減り彼らの生活は危機に瀕していたのだった。サリーと少年は再びトラックの運転手のところへ訪れる。今までの(魔法での)妨害を詫び、同時になぜ自分達がそうしたのかを説明する。少年の友達が交通事故で死んでしまった事。借りてるマンガを返しに自分も天国に行こうとした事。トラックの運転手達はその話を聞くと号泣し、仲間を集めて「二度と乱暴な運転をするんじゃねえぞ」と互いに誓い合うのだった。サリー達は道路にマンガを書く事を思いつく。広い道路に大きくマンガを書けば天国からも読めるだろう。いつしかそこは「マンガ通り」と呼ばれ交通安全の象徴になっていった。   *   *   *カブとポロンが福引きでインチキをしてカラーテレビを当てる(当時カラーテレビは贅沢品だった)。そのため本当の当たりを引き当てた少年は「何かの間違いだ」と当たりを取り消されてしまう。これを知ったサリーのパパは大激怒。カブとポロンの魔法は永久に剥奪、サリーの魔法も監督不行届として当分停止という重い処分が下る。泣いていたカブとポロンはやがて、いちるの望みをかけて少年にカラーテレビを返そうとする。「これで許してもらえるかは分からないけど、今はこれしか方法がない」と。魔法のないカブとポロンは非力だった。リヤカーに大きなカラーテレビ(当時のテレビは大きかった)を乗せて子供二人の力だけで東京から鎌倉まで運んでいく。ついに途中の山道で二人は力尽きてしまう。パパは魔法で大仏を動かし、二人とカラーテレビを少年の元に送り届ける。そして二人の反省と努力に免じて今回は魔法の剥奪を許そうという。しかしポロンは途中自分達を助けてくれた多くの人間を振り返り、「魔法なんてなくてもいい。当分いらない」と駆け出す。   *   *   *魔法使いサリーの作者が孔明の罠で知られる三国志とかを書いている横山光輝だと知った時、そのギャップに驚いたけれど、改めて考えると何となく通じるものが感じられる。つまり安っぽい「魔法」や「奇跡」は起きないのだ(まあ起きるエピソードもあるけど(苦笑))。サリーは魔法を使うけれどそれはストーリーの大勢を決定づけるものではなく、あくまで小道具に過ぎない。物語は魔法抜きで進行する。これはジャンプマンガの黄金パターン「友情・努力・勝利」とは真逆のものだ。主人公が憤りにまかせて懸命に修行すれば何の脈絡もなく超絶パワーを発揮して敵を倒して一気に問題解決とはならない。あくまでノーマルな人間が出来る範囲のことの組み合わせを駆使して問題を乗り越えていく。”

魔法では何が出来ないかをひたすら描いた「魔法使いサリー」 : メカAG (via petapeta)