水曜日

copipe

nwashy:

“毎日ブログを書いているから、森博嗣は「書きたいこと」がいっぱいあるのだ、と思われがちですが、それは全然違います。書きたいことは、ほとんどありません。僕は、普段は無口な人間ですが、言いたいことがない、というのが正直なところです。人前でなにかしゃべってほしい、と頼まれることもありますが、なにもしゃべりたいとは思っていないので、「困ったなあ」と感じます。だから、「何について聞きたいですか?」と尋ねて、相手が聞きたいと思っていることをしゃべる、という場合が多いかと。  これは、大学や大学院の講義と同じです。僕が言いたいことを話しているわけではありません。学生が聴きたいと思っている内容を話しているのです。だけど、学生のほとんども、実は聴きたいとは思っていないわけで、そうなると、黙っていた方がお互いのためなのか、とよく考えました。  小説を読む人の感想で、「作者が楽しんで書いている感じがよく出ている」と言われることがあるのですが、楽しんで書いたことは一度もないので、当たっていないことは事実。それどころか、そう言われる作品ほど「苦しんで書いている」ことが多いものです。愉快な話というのは、楽しんで思いつくものではありません。かなり苦しいと思います。たとえば、漫才のネタとか、脚本などは、作るのは苦しい作業だと想像します。  普通、人は言いたいことが言えるような環境にはありません。言いたくないことを言わされることの方がはるかに多い。そうしないと生活に支障が出る場合がほとんどです。かつては、それが社会全体に浸透した共通の観念だったと思います。言いたいことがあれば、仲間内でそっとこぼすしかなく、それは「愚痴」と呼ばれました。この漢字が示すとおり、愚かで意味のない行為、との認識だったのです。  今は、それがネットで言いたい放題になりました。それどころか、「言いたいことは、きちんと言おう」「言いたいことが言える社会にしよう」などと喧伝されています。  少し考えればわかりそうなものですが、言いたいことを言っていたら、そのうち喧嘩になるし、それが大きくなったのが戦争です。つまり、平和とは逆の方向性を持っている、というのが本来の性質なのです。ただ、秩序を守るために言論の自由が制限されていましたから、その時代を振り返って、「黙っていてはいけない」といった気運が高まってきた、それが今だということ。  だからといって、「言いたいこと」が市民権を得たかというと、微妙なところでしょう。そういった声が(漏れ聞こえて)届くようになったというだけで、よほどのことがないかぎり、不満が実際に解消されたり、問題が解決したりすることはありません。ときどき、そういう例が奇跡的にあってニュースになったりしても、あくまでも「奇跡的」だから取り上げられただけです。  問題なのは、「言いたいことを言わなければならない」との強迫観念を持ったり、「誰にだって言いたいことはあるはずだ」と迫られたりすることです。僕のように、「言いたいこと」がない人もいるので、それを少しくらい考慮してもらいたいものだな、というのが僕の言いたいことです。”

店主の雑駁: 言いたいことはありません (via conveniitekuru)