“「機」とは、漢和辞典によれば、もとは機織りの道具であり、はじき弓の矢を飛ばすバネ、仕掛けをさす。こうした意味から転じて、仏教では、「機」は教えに適合する「素質・能力」をいうようになる。人は仏教に出遇って、おのれがどのような素質をもっている人間であるかをはじめて自覚するのだ。 あるときは、厳しい戒律の実践にも耐えうる自己を見いだすであろうし、ときには、深い瞑想力に恵まれていることに気づくかもしれない。反対に、どんなに努力しても、意識を集中する力がないことに気づいて愕然とし、絶望に陥るかもしれない。だが、その絶望がバネになって「浄土教」に近づくことになることもあろう。いずれにせよ、人間は一つの仕掛けなのであり、どのような力が働くかによって思いもかけない展開をみるのである。”