“「人生 別離足る」を井伏鱒二は「「サヨナラ」ダケガ人生ダ」と訳され名文として知られているけれど、実は「さよならが多い人生だ」ということと解釈すれば、「人間はたぶん、さよなら史がどれくらいぶ厚いかによって、いい人生かどうかが決まる」と云った阿久悠の言葉に繋がる。「さようなら」とはなんとも美しい日本語であると再確認できる。「さようなら」或いは「さらば」とは、本来「さようであるならば」であり「然あれば」であるという。この長きに渡って何気なく使っている言葉がこんなにも深く重い意味を持つのです。日本人の精神や死生観、または武士道にまで繋がるように想います。運命を受け入れる、覚悟や潔さでもあり、これは決して諦めではない。ゆえに「さようであるならば」なのである。この日本語ならではの言葉の微妙さ、あわいはやはり「美」である。そして、この「さよならだけが人生だ」という言葉を寺山修司はある意味人生訓のように問うことになったのだと想う。『さよならだけが人生ならば』は、井伏鱒二の訳詩へのアンサーソングのようなものとも少し違う。何故なら、カルメン・マキに『だいせんじがけだらなよさ』という詩も贈っている。さかさまに読むと「さよならだけが人生だ」となるのです。寺山修司は、いったいどれくらいこの言葉を読んだのだろう。こうした作業は問いとなり(問いが作業となり)、「さようなら」というお別れの言葉が死と結びつく時、その限りではなく、「さようなら」の後にも人の心の中で生きてゆくことに出合う。私的な想いながら、愛する両親の死からそろそろ20年という歳月の今、私のような情けない人間は父と母を弔い続けるなかで自分に問い続けるのだろう。これからさらに歳を重ね、「人間はたぶん、さよなら史がどれくらいぶ厚いかによって、いい人生かどうかが決まる」という言葉の意味が、もっともっと沁み入るのだろう。やはり言葉は詩であります。さよならだけが人生ならば また来る春は何だろうはるかなはるかな地の果てに咲いている野の百合何だろうさよならだけが人生ならば めぐり会う日は何だろうやさしいやさしい夕焼と ふたりの愛は何だろうさよならだけが人生ならば 建てた我が家なんだろうさみしいさみしい平原に ともす灯りは何だろうさよならだけが人生ならば 人生なんか いりません。寺山修司 『さよならだけが人生ならば』”
- 『さよならだけが人生ならば』 と 『だいせんじがけだらなよさ』 詩:寺山修司 歌:カルメン・マキ 1969年 : クララの森・少女愛惜 (via petapeta)