“まあ聞いてくれ。信仰心などはじめからなく、純粋に飯を食う為だけに聖職者となった人間からのアドバイスだ。 その宗教を客観視できるのならば、入信するのはやめておけ。 祈るだけならばイワシの頭に対してだってできるし、 祈るだけならば他者は必要ない。 あんたがそこで見た他の連中は、あんたの持ってない信仰心を持ち、あんたの知らない生き方をしてるわけではない。 信仰心が強いのではなく、ただ単に、現状の生活において他の逃げ道がないだけだ。 信仰心は依存心と何も変わらない。依存の対象が人ではなく神となるだけであって、精神的自立には結びつかない。 ただそれでも傍から見れば、“信仰厚い人”という評価がなされ、“神への感謝と敬意を忘れない人”という見方がなされてしまう。 通常の価値観の持ち主なら当然、それのどこがいけない?と思うかも知れない。 だから、例をひとつあげよう。 数年前か。ある日、職場に一組の夫婦が祈願の依頼に来た。初めて見る顔だった。 夫婦は普段着みたいな格好で、表情は無く、喋る言葉も訥々としていて、なにかに行き詰って祈願に来たのだろうと思った。 祈願内容として口にしたのは、「家内平和、息子の就職祈願」だった。二人が口にするのは決まってその内容だった。 来るペースは月一か、二月に一度くらいだった。ジャージで来て祈願を受けていく事もあった。 それから何年かして、夫婦の様子が少しずつ変わっていった。 外出着っぽい服に身を包んで現れるようになり、表情にもわずかだが笑顔が見られるようになった。 祈願を受けに来る間隔も若干短くなっていたように思う。 だが、祈願内容は全く変わらず、「家内平和、息子の就職祈願」だった。今も変わっていない。 さて、このエピソードを見て、あんたはどう思っただろう。 “祈願に来ることで夫婦には変化が現れ、明らかにいい影響が出ているのだから、よかったじゃないか” そう思ったかも知れない。 そうだな。実際、夫婦は数年前よりリラックスしてるように見えるし、それを見守るこちら側の視線も暖かくはなる。 だが、違うんだ。なぜなら、祈願に来た結果、この夫婦にとっての問題は何一つ解決していない。 この数年間で夫婦がすべき事は他にあった。 片道二時間くらいかけてやってきて、数千円の祈祷料を払い、長い祈祷を受け、また片道二時間くらいかけて帰ってゆく。 その時間と金を使って、家庭内の問題に、ちゃんと正面から向き合うべきだったんだ。 リピーターになってしまってはいけない。祈願を受けるのが楽しくなってしまってはいけないんだ。手段と目的がすりかわる、それは本末転倒と言う。 だがこちらは生業として聖職者をする身だから、こういう事は口に出来ない。 でも本当は、神にすがらず頼らず、彼らはちゃんと自分の足で立って、ちゃんと自分の手で現実と戦わなければならなかったんだ。 さて、神を作ったのが人間かどうかという問いは誰にも答えられないにしても、宗教を作ったのは人間だと断言できる。 宗教は団体だから、運営上必然的に資金を集める必要がある。経営者や職員に食えるだけの給料を払わなければいけないからな。 だからどうしても定期的な収入、すなわち信者からの恒常的な搾取構造を設ける必要がでてくる。 賽銭箱しかり、祈願しかり、授与品(お守りとかお札)しかりな。 歴史ある宗教とはすなわち、古い歴史の中でいつしか公認されてきた詐欺、と言ってもいいだろう。 神に頼る者の問題をなんら解決しない。 それどころか、救いを求めてすがりつく者から金を巻き上げてゆく。 神へと祈る者が勝手に受け取る精神的安定と引き換えに、対価を要求する。 繰り返すが、宗教は人の作った組織だ。 その中で神を信じ続ける事が、あんたにできるだろうか? 既に、宗教を冷静に客観視して「みんなで祈るのもいいものだ」とか良かったところ探しをしており、そのことを増田に書き込んで整理しようとしているあんたに、入信して神を信じ続ける事が果たしてできるのだろうか? 悪い事は言わない。 手段が目的にすりかわってしまう前に、信仰を持とうとするのだけはやめておけ。”— 20140217175047 (via w210)